YAMADAは栃尾の発展とともに成長してきました。
▼
▼
古くから養蚕が盛んだった長岡市栃尾地区(旧栃尾市)は、絹織物の産地として栄え、戦後は化合繊維で名をあげた「繊維のまち」であり、「ガチャン、ガチャン」と機織りの音が響き工場がひしめいていた。山田修整は、1963年山田實によって創業され、1965年には隣接する見附市にも工場を開設。
1970年には、大手同業者だった栃尾修整㈱を従業員約60名を含めて吸収。1984年にピークを迎える栃尾地区繊維産業の成長とともに、山田修整も急速な成長を遂げることとなる。
1982年には福井工場を、また、1985年には五泉工場を開設。織物・ニットの産地を中心に拠点を拡大していった。
拠点拡大を続ける中、1987年二代目原豊重に社長交代。全国展開を視野に入れ、昭和から平成に切り替わるタイミングで東の東京、西の大阪に続けて工場を開設した。さらに、1992年には小松工場を開設。ここに至って、「困った時のYAMADA」とお客様に言わしめるほどアパレル業界に認知されるまでになった。
1991年のバブル崩壊の影響もあり、栃尾地区の出荷額は2000年にはピーク時の半分以下にまで落ち込んでいた。また、2008年のリーマンショックの影響もあり、国内のアパレル市場規模も縮小傾向が続き、2010年以降は横ばい状況である。
創業から50年以上が経過し、修整スキルの伝承や事業承継という課題に積極的に取り組んでいる最中。特に、2019年末に中国武漢からはじまったコロナウィルスは、従来の「普通」が「普通」でなくなる事態を世界的規模で引き起こし、規模や業態を問わずアフターコロナに向けた動きを模索せざるを得ない状況となっている。弊社もSDGsの策定や修整事業にとどまらない100年ビジョン「Restoration to Creation」に向かって歩み始めている。